3年ぶりの祇園祭 山鉾巡行。
今年2022年、3年ぶりに祇園祭の山鉾巡行が再開されました。
平安時代に厄除退散を祈願して始まったお祭りです。
ちょうど 京都の華道の学校の時期と重なったので、是非観たい!と、山鉾巡行を翌日に控えた23日、仕事を切り上げ新幹線に飛び乗り 23時京都着。宵山の巡行の無事を祈る「日和(ひより)神楽」にギリギリ間に合いました。
「日和神楽」は祇園囃子を奏でながら、御旅所に行き、祇園囃子を奉納する行事です。
↑ この日和神楽の最後に、南観音山(みなみかんのんやま)の御神体・楊柳(ようりゅう)観音像を蓮華の形に作った台座・蓮台に巻き、町内を回ります。山鉾の駒形提灯が灯され、囃子を奉納して晴天を祈願します。
そして24日は山鉾巡行。元々 山鉾巡行は、町の邪気や穢れを山鉾で清め、祇園祭の主神である八坂神社の神様が通る道を作るために行うもの。
「橋弁慶山」を先頭に11基の山鉾が御池通・河原町通・四条通を巡行します。今年は「鷹山」が 196年ぶりに復活するので、皆とても楽しみにしています!
毎年、蓮心会京都支部長より、祇園祭の特別なお守りを頂きます。
この時期だけ八坂神社や各山鉾町で授与されるもので、翌年の祇園祭まで疫病や災難除けとして玄関先に吊るします。
毎年違う 山の粽 のお守り。これは 本当に嬉しいです!
『蘇民将来子孫也 (そみんしょうらい しそんなり) 』という言葉が書かれています。さて、皆さんはこの言葉、ご存知でしょうか?
『蘇民将来』とは、「備後国(びんごのくに)風土記」に書かれた人物名で「昔、須佐雄神(すさのおのかみ)が一夜の宿を借りようとして、裕福な弟の巨旦(こたん)将来に断られ、貧しい兄の蘇民将来に迎えられて粟飯をご馳走になった」ことから、「私は蘇民将来の子孫ですから守ってください」という意味でお守りになったというものです。
大昔は祇園祭に、ちまきにこのお札をつけて、山鉾から投げていたと聞いたことがあります。祇園祭に欠かせないお守りです。
この粽は、藁(わら)を軸にしてクマザサの葉をイ草で三角形に巻き、それを10本で1束にして形が整えられた厄除けの飾り粽。
5月の端午の節句の粽とは違って食べられません。(→端午の粽、とても美味しいのだけど、笑えるほど食べ難い)
いずれのちまきにも『蘇民将来子孫也(そみんしょうらいのしそんなり)』と記された護符(ごふ:おふだ)が付けられています。
生徒から『先生、「孫」と言う字が可愛い!』と言うので良く見てみると、確かに…
「子(ね)」の字は子供を表しています。(元々了の上部は丸で頭を表しその下に腕が左右に一本) その子に、お団子のような小さな子供みたいなのがひっついています。「孫」という漢字は自分の子供の子供という意味だからなのでしょうね。
キュートなところに気が付きましたね。
感染症が騒がれだした3年半前、師匠の稽古場で『今年は祇園祭は何にもしないのだって!全く京都は観光重視になってしまって、神事の事を忘れてしまったのね、情けないわ〜』と、愚痴を聞きましたが、
すぐその後に蓮心会京都支部長からホッとするお便りが届きました。
『昨日17日はちょうど山鉾巡行の日でした。先生、ご安心下さいませ。今年は山鉾の姿はないですが役員の方々や保存会の方々が榊を持って巡行されたり、かなりの縮小ではありますが粛々と神事を含む祭は執り行われております。皮肉にも今年ほど祭の意味を感じる年はありません。
16日には観客を入れずにお献茶も。今年は表千家の番でした。お茶が疫病退散の祈りに係わっているのは誇らしい気がします。
(中略) 私は 今日、お稽古の日でした。本日も祇園祭の室礼をして下さいました。お送りした御守の香合と蓋置きのお写真を撮らせて頂いたのでお送りします。↓
先生から『今では香合にしている方も多くいるけど、最初に考えたのは僕だよ。こういうことを考えるのも楽しみなのだよ』と少し嬉しげに教えて下さいました。
蘇民将来も祇園祭についても調べてみるほど奥深く、毎年迷宮入りしてしまいます…』
↑ 京都のお稽古の様子も楽しめるお便りをありがとう!
3年前は時間が沢山あったので、調べものをしていたら、2008年7月の「華道」月刊紙に祇園祭のことが書いてある記事を見つけました。
『祇園祭のルーツは平安時代中期、疫病の流行を鎮めるため、人々が鉾を手に練り歩いたという。現在のように町内ごとに鉾や山を建てるのは、室町時代から。
今の山鉾巡行は17日と24日の2度行われている。
17日の巡行の前夜祭にあたる宵山が16日に、前々夜祭の15日が宵々山と呼ばれる。この3日間の祭りが前祭(さきまつり)という。
そして「後の山鉾巡行」が24日。その宵山が23日、宵々山が22日。
この3日間の祭りが後祭(あとまつり)と呼ばれている。
要するに私が23日に見たのは、後祭の宵山ということ。
→ 今によく云う「後のまつり」の語源。♪
この絵図は「都名所図絵」↓
↑「京都の豪商たちが競って山の飾りなど華やかに盛り上げていったが、昭和41年、繊維業界が『長く商売を休めない』」と、一時は山鉾巡行は17日しか行われていなかった時期もあった。」
…「そんなこともあったの〜」と、調べてみると、この記事が書かれた6年後の2014年から後の祭りが再開されたとのこと!
こうして千二百年近く続く歴史あるお祭り。
くじを引かず、いつも先頭と決まっている「長刀鉾」にあやかりたいものだと、即中斎が描かれた扇子も茶席での御馳走です。↓
7月は京都の池坊研修学院での勉強期間に重なる事が多く、洛中に「コンチキチン…」の音が聞こえる風情は大好きです。
学んでいる週の昼間はもちろん観光は出来ませんが、24日頃夕方17時から3基の神輿は四条御旅所から氏旅社(御供社)を経由し白馬に乗って八坂神社へ神様が帰られます。この道を山鉾巡行は清めていたのですね。
この大切な「還幸祭(おかえり)の御神輿」に縁があり、何度か観ることがあります。静かでとても神秘的な感じがして一番好きです。
今年3年ぶりに祇園祭を(少しですが)間近で堪能することができ、つくづく このお祭りが京都人にどれほどまでに愛され、守られてきたかを肌で実感することが出来ました。
町内の方々が、まるで運動会の我が子の活躍を応援するような気持ちで見守る様子に大感動です。
7月一杯続く祇園祭の最終日、蘇民将来は八坂神社境内にある疫(えき)神社に祀られ、茅の輪をくぐる夏越の祭りが催されます。
「疫神社夏越祭」、祇園祭を締めくくる最後の行事。
「茅の輪くぐり」とは、日本全国の多くの神社で、主に6月30日ころに行われる「大祓」、「夏越の祓」の神事。
そう、
この神事が「蘇民将来」と深く繋がっているのですね〜。
田無神社でも、毎年6月いっぱい「茅の輪」が設置してあり、それをくぐることで、半年の間についた汚れを落とし、残り半年の無事を祈ることが出来ます。
3年前には新型コロナの鎮静を祈る行事が行われました。
祇園祭のことは、深すぎて詳しくは書ききれないなぁ… と思っていたら最適のサイトがありました。↓
http://www.yasaka-jinja.or.jp/event/gion.html
大昔からこの、新型コロナウィルスのような疫病は存在していたのです。昔の人は、それを祟りや鬼の仕業と思い、なんとか鎮めようと受け継がれてきた行事。
「花火」も、元々は鎮魂の想いからですしね。
きっと、各地方にも沢山こうしたお祭りは受け継がれているのでしょう。
日本各地で大切にされている行事を、もっといろいろ知りたくなります。
こうした「祈る心」の強さは、きっと絶大です。
「健康」に感謝し「皆の厄除」を祈願する。
人間の根本の 想い を見つめなおしていきたいと思います。
そうそう、三年前には、「伊勢角屋麦酒」の「コロナウィルス退散セット」を戴いたなぁ。
「蘇民将来子孫也」のお話は、素盞嗚尊 (スサノヲノミコト) の御神徳なので、伊勢神宮でも大切に受け継がれているのは間違いありませんね。
とても美味しかったです♪
こうして、改まってブログに更新することは なかなか難しいのですが、日常の細々とした報告はInstagramやF.B. で公開しています。
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